北山林業に詳しい、地域外にお住いの方から、

昭和初期の北山の地域についての文章をお寄せいただきましたので、ご紹介します。

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◎昭和初期における北山地域について

大正15年から周山街道の改修が進むにつれ、昭和初頭には北山丸太のトラック輸送が始まった。

昭和2年春、金融恐慌が突発、京都は同年3月、丹後大震災に見舞われていた。

昭和3年11月、天皇即位の御大礼が行われるにおよび中川村では、黒木丸太(スギ皮付き丸太)500本、磨丸太が500本の御用材納入を行った。納入は同年8月8,9日、古式を復元して牛車を仕立て、幟、表札を立てて輸送したのである。

昭和3~4年、中川唯一の製材所である山三製材所が発動機および電動機利用の丸鋸機を設置した。これによって北山丸太の背割れ作業が動力機械による賃挽きに全面的に切り替わった。これが北山丸太の加工生産にとって近代動力機械導入の初めである。

北山丸太商組合では昭和6年から自動車運賃の単価合わせを行い、組合員のほとんどが営業車によるトラック輸送に依存するようになった。当時の申し合わせ運賃は、京都行き1束15銭(現在の540円)、大阪行き1束40銭(1,440円)を標準としている。

不況の深刻化に伴い、磨丸太、垂木ともに高級品はほとんど売れず、相場も磨丸太の標準物で1本5円、垂木1円(現在の5千円)くらいがやっとであった。そういう時代だからこそ粗製濫造や投げ売りも出てくる。これを防止するため北山丸太商組合では、昭和6年6月、資本金1万2千円を投じて北山丸太株式会社を設立したのである。仲買を営業内容とし、生産調整に配慮するとともに北山丸太の品質と信用維持に努めたのである。

これに対して今ひとつの問題は丸太原木の充足であった。北山丸太の生産は、昭和初期には年産5万本に近づいており、その増加に伴って地山と言われる北山林業地内の磨丸太林分(区域面積600ha)からの伐採量では足りなくなり、京北山国、黒田など周辺の林業地帯から原木仕入が増加していくことになる。これらを「似た山丸太」と称して製品の等級に格差がつけられたが、北山林業の育林方式が漸次採用されるにつれてその品質も向上していった。丹波材導入の本格化である。